ハプスブルク家6 カール5世
今日もハプスブルク家。
『図解雑学ハプスブルク家』(菊池良生著、ナツメ社、2008年)を参考にハプスブルク家を勉強します!
今回は、カール5世だ。1~4世はどうだったか?それはわからない。
彼は、スペイン王女の子だったから、スペイン王にもなっている。その他、地盤のブルゴーニュ公、ローマ王にもなっている。そして、神聖ローマ帝国皇帝だ。
かがやかしい経歴。さらに、大航海時代のスペイン王ということは、中南米も支配下においていることになる。
この時に生まれたキラーフレーズ「日、没することなき世界帝国」。
ちなみに、彼の子が世界史の教科書にもでてくるスペイン王、フェリペ2世!
カール5世と1530年に結成されたプロテスタント勢力の同盟軍シュマルカルデン同盟との対立、そして戦争へ。カール5世の勝利でおわった。
そして、ハプスブルク家の繁栄の時代が盤石のものとなるのである。
それにしても、ヨーロッパの歴史はわかりづらい。スペイン王、ローマ王、神聖ローマ帝国皇帝を同時期に同じ人物が引き受けている。複数の国のトップを一人に人物が引き受けるということだろうか?
なかなか、イメージしづらい。その意味で中世ヨーロッパについては、家で勢力図を整理する方が良いのだろうか?
ハプスブルク家、ブルボン家などなど・・・無知でこれから知識を付けていきます!
ハプスブルク家5 マクシミリアン1世続き
前回に引き続き、マクシミリアン1世。
4ページも紙面を使うなんて、偉大さを感じざるを得ません!
彼の偉大さは、近代郵便制度の確立にあるというのだ。
郵便制度は現代にもつながる制度。やはり、すごい・・・
ただ、戦国時代ころに現代の郵便制度を駆使したのは、今でいうところの5Gの独占的使用権を手に入れたようなもの。
マクシミリアン1世。最高にすごい人物なんだろうね。
神聖ローマ帝国皇帝の座についてはハプスブルク家の世襲制を築き、郵便制度により今でいうところの売れっ子IT企業の地位も確立。
ほんとにすごい人物。なのに、高校世界史の教科書にもかすりもしない・・・少なくとも自分の頃は出てこなかったなあ・
ということで、マクシミリアン1世、すごいけど、教科書に出てこない
残念な人物でした。
僕は絶対にわすれない・・・マクシミリアン1世を!
ハプスブルク家4 マクシミリアン1世
今日もハプスブルク家。
見出しタイトルに「中世最後の騎士」、「近世最初の皇帝」とある。
日本でいうと、徳川家康か。戦国時代から江戸時代という近世の扉を開いたニュアンス。
マクシミリアン1世のキーワードは、傭兵歩兵部隊「ランツクネヒト」と「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」なんだろうね。
「ランツクネヒト」を率いてフランス制圧を考えていたらしい。騎馬隊が主体の中世の中で、歩兵部隊に重心を置いたことは革命的なんだろうね。日本でいうところの「足軽」にあたるのかもしれない。時代背景的にはかなり似ているよね。歩兵部隊の台頭は、近世の扉を開いたともいえる。
「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」だけど、本来は、教皇から指名されて皇帝に就任するんだけど、それを省略して皇帝を名乗ったらしい。しかも、認められたんだろうね、これ以後、ハプスブルク家の事実上の世襲制となっていった。それまでは、選帝侯時代と言われるくらいだから、複数ある選帝侯の中から、教皇が指名して皇帝が決まっていた・・・ざっくりいうとそういうこと。
これを覆したのが、マクシミリアン1世!
この二つから、近世ヨーロッパの覇権を握る皇帝ハプスブルク家の栄華の幕が開かれるのである。
ハプスブルク家3 フリードリッヒ3世
引続き、ハプスブルク家を勉強してみる。
今回は、フリードリッヒ3世だ。
皇帝になったらしい。
だから、ハプスブルク家の繁栄に大きく寄与した
と言える。
だが、彼の評判は必ずしも優秀でない。
彼の良かったところは、長生きと優秀な息子のおかげであるという。
長生きであった彼は、ライバルたちが勝手に死んでいったため気づけば敵はいなかった。また、息子の嫁がブルゴーニュ公国シャルル大胆公の娘マリアだったが、大胆公が没落したのち、遺領ネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク、フランス北部あたり)がハプスブルク家の土地となった。これが大きい。後の経済的基盤となった。
さて、次回は、フリードリッヒ3世の優秀な息子、マクシミリアン1世の話となるだろう。
とにかく、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家の図式はこのフリードリッヒ3世のことに始まる。1508年からのことである。日本では、戦国時代初期頃か。斎藤道三、北条早雲などが活躍していたころ。信玄・謙信はまだ少年。信長・秀吉・家康なんかまだ生まれていない。そんなころかな。
ハプスブルク家2 ルドルフ4世
『図解雑学ハプスブルク家』(菊池良生、ナツメ社、2008年3月)に学ぶ!
今回もハプスブルク家。
ルドルフ4世ね。
前回の主人公のルドルフ4世のひ孫にあたります。
14世紀中頃。時は、神聖ローマ帝国の皇帝を7家の侯爵家から選ぶ
七選帝侯時代。
ハプスブルク家はこの7家の侯爵家に入っていない。たぶん、侯爵家じゃなかったはず。ルドルフ1世は伯爵家だったもんね。
七選帝侯に入らないのは当然。伯爵家だもん。
ただ、ルドルフ4世は、これにいちゃもんをつける。世に名高い「大特許状」だ。これによると、「自分は、侯爵家より上を行くオーストリア大公である!」と主張、過去の英雄の特許状を合わせて主張。
これには、たくさんケチがついたみたいだが、結果、受入らた模様。これをハプスブルク家の選良意識となる。長年における栄華の基礎はここに作られると言えるのかもね。
ただ言えることは、ハッタリを飛ばす力がハプスブルク家に既に備わっていたことを物語るエピソードと言えるかもね。
今日はここまで。
ハプスブルク家1
今日から、教養のため、本で読んだことをあげていこう。
菊池良生著『図解雑学ハプスブルク家』(ナツメ社、2008.3)
この本を師匠として、ハプスブルク家を学んでいこう。
まあ、本棚にあったから、でも、ハプスブルク家って世界史かじったことあるなら、聞いたことある貴族だね。
ぼくはやったことない。だから、聞いたことあるけど、よくわかんない。折角読むのだから、記録していこうというわけ。
第1回目は・・・ルドルフ1世!
世界史の教科書には出てこないよね。ぼく知らんし。
時代は、13世紀。位は、伯爵家。へ~、公侯伯子男の三番目ね。
以外と位は低い。
なんでも、ビール片手に民衆から喝さいを浴びるとあるから、劉邦みたいなもんなのかな。
舞台はドイツか。当時は神聖ローマ帝国。このころの皇帝は、純粋に有力諸侯から選挙で選ばれていたとのこと。
ルドルフ1世のライバルは、ボヘミア王とオーストリア公領を納めていた金持ち王オカタル2世。たぶん、オーストリア公領ってくらいだから、公爵家なんだろう。伯爵家ルドルフ1世より位は間違いなく上なんだろうね。オカタル2世はエリートだ。ルドルフ1世は庶民的。たぶん、そんな構図なんだ。
そんで、勝ったのはルドルフ1世。そして、マルヒフェルトの戦い(1276)で勝利、オカタル2世からオーストリアを奪取!
第一次世界大戦までの地盤オーストリア統治はここから始まるらしい。
生まれながらのエリートじゃないところが好きだね。まあ、ハプスブルク家って聞くと、世界史上最強の貴族のイメージがあるけど、黎明期があってほっとした。
ルドルフ1世の生きた時代は、日本でいうと、鎌倉時代かな。承久の乱・宝治合戦・元寇とか・・・北条時代ね。
ふ~、ここから、ハプスブルク家をしっかりまとめていきたい。